猛暑ですね。四国でも35度という地域も多かったようです。
お釈迦様の時代には、この季節は「夏安居」と言われ、托鉢に回るのを止めてひとところにとどまり
洞窟や施主のもとで、瞑想などに専念する時期とのこと。インドでは、雨季に相当し、夏の虫など
が繁殖期なので、托鉢中ふんづけて殺生をしない配慮からとも言われています。
クーラーのない猛暑・雨季を瞑想でしのぐ古代インド人の智恵かもしれません。
わたしもお風呂に入るときは「瞑想タイム」という入浴剤を入れています。
さて、「瞑想」について。
なれないわたしたちが、結跏趺坐などしていざ瞑想・座禅などに取り組んでみるといろいろなことが
起きます。まず、姿勢がきつい。足がいたい。周囲がきになる。しんどい。鼻がむずがゆい。
楽しくない。腹が減る。いやなことを思い出す。退屈だ。面白くない。何やってんだ・・・むなしい
これで修行になるのかな? などなどです。雑念の洪水のようなものが心中に現れては、むなしく消えて
ゆきます。これを「修行するぞ修行するぞ}とオウム信者のように我慢していると、今度は
眠気がさしてきて、ついうとうと。さらに続けていると今度は、床の木目がくるくる回転したり
モノ音が人の声に聞こえたり、雑念は幻覚・幻聴のようなものになります。こういう「魔境」退治に
禅堂では警索が用いられるようです。
東洋的瞑想は、「効用を考える」「意味を求める」といった分別を心そのものを迷いとして扱い
ひたすら座禅せよ・・・と言いますから、われわれにはちょっと「きつめ」かな。
よく「心はサルのようなもの」と説かれます。それまで自由に木々を飛び歩いていたサルが
折の中に入れられたときのようにあらゆる手を使って、暴れる。そして、出られないとわかると
うとうとする。バナナの幻覚を見る。芝居をしてみる。人まねをしてみる。吼えてみる。などなど
対象から対象へと注意を移動して、印象から印象へと渡り歩くわたしたちの日常・・・・・。
さて、心というサルを手なずけるには、何が必要でしょうか?
お釈迦様の時代には、この季節は「夏安居」と言われ、托鉢に回るのを止めてひとところにとどまり
洞窟や施主のもとで、瞑想などに専念する時期とのこと。インドでは、雨季に相当し、夏の虫など
が繁殖期なので、托鉢中ふんづけて殺生をしない配慮からとも言われています。
クーラーのない猛暑・雨季を瞑想でしのぐ古代インド人の智恵かもしれません。
わたしもお風呂に入るときは「瞑想タイム」という入浴剤を入れています。
さて、「瞑想」について。
なれないわたしたちが、結跏趺坐などしていざ瞑想・座禅などに取り組んでみるといろいろなことが
起きます。まず、姿勢がきつい。足がいたい。周囲がきになる。しんどい。鼻がむずがゆい。
楽しくない。腹が減る。いやなことを思い出す。退屈だ。面白くない。何やってんだ・・・むなしい
これで修行になるのかな? などなどです。雑念の洪水のようなものが心中に現れては、むなしく消えて
ゆきます。これを「修行するぞ修行するぞ}とオウム信者のように我慢していると、今度は
眠気がさしてきて、ついうとうと。さらに続けていると今度は、床の木目がくるくる回転したり
モノ音が人の声に聞こえたり、雑念は幻覚・幻聴のようなものになります。こういう「魔境」退治に
禅堂では警索が用いられるようです。
東洋的瞑想は、「効用を考える」「意味を求める」といった分別を心そのものを迷いとして扱い
ひたすら座禅せよ・・・と言いますから、われわれにはちょっと「きつめ」かな。
よく「心はサルのようなもの」と説かれます。それまで自由に木々を飛び歩いていたサルが
折の中に入れられたときのようにあらゆる手を使って、暴れる。そして、出られないとわかると
うとうとする。バナナの幻覚を見る。芝居をしてみる。人まねをしてみる。吼えてみる。などなど
対象から対象へと注意を移動して、印象から印象へと渡り歩くわたしたちの日常・・・・・。
さて、心というサルを手なずけるには、何が必要でしょうか?
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