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(美術館前庭 オブジェ 「クエ」憮然とした態度です。)


今、流行っている『デス・ノート』を見ています。わたしにとっては、お馴染みの『死神』を巡るアニメ

です。こういうアニメが流行るのは、やはり時代と言うものでしょうか?映画版の松山ケンイチさんって

いいですね。学生時代の親友にそっくり(劇中のキャラですが)だったので親しみを覚えます。

心理学と芸術とフランス文学に詳しく、懐疑の心を大切にする友でした。

友の影響なのかわたしも、基本的には「懐疑の人」です。しかし、「猜疑の人」ではありません。

懐疑と猜疑は良く似ています。場合によっては同じ、次元を共有することもあるようです。

ただ、ひとつ違いは猜疑は他人に向けられることが多いのですが、懐疑は圧倒的に「自己への疑い」に

満ちています。それほどまでにデス・ノートも語るように「信じることは簡単であり、信じることは危険

な時代」なのかもしれません。しかし、高度なシステム社会である現状の中では「信じる、信じない」は

特に大して問題とはならないのかも、知れません。なぜならわたしたちは、すでに「明るい視覚」を獲得

しており、ほの暗い影に怯えることは少なくなっているからです。

テーマは、跳んで「自灯明、法灯明」と言われています。高度なシステム社会のシステムを解明して

事実を確定し、自己への疑いを克服する力を培う時代が近づいているのかもしれませんね。

つまり、安易に信じることを捨てて、同時に不信の心を去ることなのでしょう。

もし、それが可能なら「懐疑」は確信に変わるかもしれません。

あ、忘れていました。左の後ろに死神はいます。リュークかな。