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(ネパール アメジスト・ブレスレット シルバー925)

『アジアン・ショップやまねこ軒』URL:http://shop.yamanekocart.com/

はい、どっと(=^o^=)やまねこでおます。

自由について考えています。人は何によって「自由」を感じるか?

行動の自由は、まず必要ですね。いかなる行動もできるということです。しかし、時として身体条件や

社会的条件で行動の自由が制限されることがあります。車で出かけようとしても車が故障したり、出かけ

ようとしても新型インフルエンザの疑いがあったり、持病が再発したり、鬱病が思わしくなかったり・・

など行動の自由は専ら身体と社会に制約されているのです。

精神の自由はどうでしょうか?

大丈夫です。わたしがわたしの責任において何を考えようと自由です。わたしたちは、思考においては

全くの自由なのです。隣人が憎たらしい・・・明日は何をしようかな・・・腹減ったな・・・鬱陶しい

天気だな・・・さて今日は何処へ???・・・ヘーゲルは自由人だったか???・・・などなどと考える

自由はわたしに属しています。考えた内容について責任を問う人がいるとしたら、わたしだけですね。

昔は、特高・思想警察と言うものがいて、考えた内容を監督していました。共産思想やアナキズムなど考

えた三木清や大杉栄は投獄されました。そして北一輝や大川周明も投獄されました。政治的な思想家は右

翼も左翼も投獄されます。政治権力の時局がそれを決定してきたということです。

戦後は、幸いなことに思想・信条の自由が憲法で保障されるようになって来ました。

いかなる思想を持とうと個人の自由なのです。

しかし、これが本当の自由なのでしょうか。あるいは、本当に思想・信条の自由を自分のものにしている

のでしょうか?

自由とは「わたしが決める自由」と定義されます。本当に「わたしが決めているのか?」という疑問が

あります。誰かの干渉は受けていないか? 何かの支配は受けていないか?何か外に選択の動機はないか?

『わたしが決めるとすればわたしとは誰なのか?』

わたしの履歴書はわたしではなく、わたしの生育環境はわたしではなく、わたしの精神分析はわたしでは

なく、わたしの身体的な分析はわたしではない・・・諸々のわたしに関する知識・情報・分析はわたし

ではないということは確かです。

ゆえに「わたし」とは「わたしではない」もの一切を排除したものであるといえます。

A=非AであるがゆえにA=Aであるとすれば、A=わたし 非A=わたしではない者と仮定すると

わたしは、わたしでないものであるがゆえに、わたしはわたしである

そして、わたしでない者とは「世界」と言えるでしょう。

わたしは、世界であるがゆえにわたしはわたしである。ということになります。

すると世界を反転するものこそわたしと言うことになるのですが、これは論理に過ぎません。

わたしは自由に思考するものとして自由なのです。

感情は何かの影響を受けているかもしれない。意志は何かの影響を受けているかもしれない。

ただ、思考においてのみわたしたちは自由な存在でいられます。

考える自由をいかなる存在も法律も拘束することはできません。

ゆえに感情と意志を留保して、考える思考のトレーニングこそがわたしたちの自由への道しるべなのだと

思っています。やまねこ(=^o^=)でおました。