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はい、どっとこむにちは(=^o^=)やまねこどす。

仏教について考えていました。そもそも仏教とは、わたしたちにとってなんだろう?ということなので

す。お釈迦様、仏弟子、中国を経由して日本のさまざまな祖師方を通して伝えられた仏教なのですが、現

代人にとって何をもって「仏教的」と言い得るのでしょうか?

わたしは、親族にお寺の住職がいたり、父親が仏師だったりしたために、仏教を根幹として人が生きるの

が当然と思って来ましたが、大きな勘違いであることに最近気づきました。多くの人にとっては、形式的

儀礼以上のものではないのかもしれませんね。お葬式や観光旅行の文化遺産や初詣やお盆やお墓参りなど

の風習の中で「なんとなく生活の背景にあるものとしての」仏教と言うのが、多くの人たちにとっての仏

教的なものと言うことなのかな。

わたしは、僧侶と言うものがテレビで伝えられるような禁欲的なものではなく、思い切り世俗的で、拝金

的で堕落の限りを尽くした例をいやと言うほど見て来ました。わたしの心の中の疑問符は『それでも仏教

なの?』と重ね重ね怒髪、天を突く憤りを感じてきましたが、これも大いなる誤解でした。

彼らの90%が世襲住職であり、家業としての葬祭サービス業を受け継ぐごく、ありふれた「のれんわ

け」の風習に従ったまでであり、むしろ檀家経営に熱心な僧侶が多いのが実態と言えるでしょう。

お寺と言うものは、よけいなことは言わず法事・葬祭と墓地経営に徹するべき・・というのが正常な経営

判断なのかもしれません。

ともあれ、仏教とは何なのか?それは、お釈迦様に遡り、ゴータマ・シッダルダという人物から始まると

いう歴史的な事実に思い当たります。

お釈迦様=ゴータマ・シッダルダの人生のあり方そのものが「ブッダの道」としての仏教をシンプルに伝

えているとわたしは思っています。紀元前5世紀にクシャトリア階級の王子としての出生し、何不自由な

い王侯生活からの出家そして、6年間の苦行の末に苦行を捨てて、中道を歩み菩提樹下で悟りを開かれる

のです。


 お釈迦様の悟りとは、ダルマと言われます。一切皆苦・諸行無常・諸法無我・涅槃寂静を四法印と呼ん

で、仏教の根本真理ととらえます。人生の本質を観察すればそれは、すべて「苦しみである」という真理

そして苦しみの原因は「無明」という迷いであるということ。この世の現象は、永遠なものは何一つなく

流れ去ってゆくという真理。この世の一切は「我」という性質はなく、無明が我というものを縁起させて

いるという真理。生・老・病・死という苦しみから解放される道は、八正道を実践することによってもた

らされるという真理。無明を滅し、涅槃寂静にいたる八正道とは次の通りです。

聖なる八正道                                     

正見・・・・・・・・正しい見方        正思・・・・・・・正しい考え方
正語・・・・・・・・正しい言葉遣い     正業・・・・・・・・正しい行動
正命・・・・・・・・正しい生き方       正精進・・・・・・正しい努力
正念・・・・・・・・正しい祈り        正定・・・・・・・・正しいメディテーション

正しい見方、正しい考え方とは何でしょうか?

それは、箇条書きにして理解するといったものではないことは確かですが、また抽象的に論議する類のも

のでもないようです。


『法を灯りとして、自己を灯りとして、怠ることなく勤めなさい』という言葉があります。

これは、お釈迦様の臨終の言葉です。お釈迦様は菩提樹下で悟りを開いてより、45年間説法を続けまし

た。無明を滅し、すべての業を滅却して、最勝の悟りを得られた仏陀が、苦に満ちたこの世界に生きる人

たちと共に歩まれたのです。正しい生き方とは、このようなあり方の中に暗示されているような気がしま

す。中道とは、度を過ごさない・・といった処世術ではなく、この世の苦の真っ只中で八正道を実践する

ということ。

そして、自己を灯りとして、法を灯りとして生きることなのだと考えています。やまねこでした。