イメージ 1




今日はあられが降りました。冬らしいお天気です。今年最後の仕事の山を越えて、ほっと一息。

やまねこドームの中でコタツねこになってます。

ところで、このやまねこドームは別名ライフ・デザイン研究所でもあります。

なぜ、ライフ・デザイン研究所なのか?やまねこは密教得度者であります。

生まれからいうと坊さんの道もあったのですが、オカルティストの道を選びました。

「なんで坊さんにならんかったん?」「人が亡くなってから行ってもしょうがないやろ。

生きてる間が大事、どう生きるかやろ」と言っておりました。18歳で得度したやまねこですが、

寺には居つかず、(大学卒業後、半年くらいは居たらしい)あちらこちらに居を移し、やっと

丸い球体のドームハウスを棲家にしたわけです。

その棲家でオカルティストの仕事である「どう生きるか」フラー博士の言葉では

「人間存在そのものが聖なる創造性の現われであり、各人は自分の人生をデザインできる

という絶対的確信がある」ということを基にライフ・デザインを実践していたわけです。

そんなことを考えているとオカルティストになった出発点でもある密教得度受戒の様子が

書かれてある記事が見つかりました。全国津々浦々、過去にも未来にもこんな説法は

ないでしょう。2007年12月 やまねこが心筋梗塞で臨死体験をした4年後に書かれた記事です。

興味深い内容なので転記します。


「出家・得度30周年 D-51思い出」byやまねこ

前に少し、お話しましたがわたしは、18歳で得度しております。これまた12月頃の話

でそろそろ30周年が来ます。叔父でもあり、住職でもあった密教系の寺院で、得度の説法、

受戒を受けました。

身内から得度を受けるというのは、正式にはありえないことで、ルール破りの住職の定番でした。

そもそも、日本の僧侶といわれる人のほとんどが「家業をつぐ」という形での「出家」なのですが

キリスト教と事情が違って仏教否定ともなりかねない「ありえない話」なのです。

出家とは読んで字の如し・・・家を捨てるということです。家である寺にそのままいてなにが

出家なのでしょうか。

勿論、家業を継ぐことは悪いことではありませんが・・

葬祭儀礼業者さんとしては健全な継承であるというのは、わかります。

さて、そのおりの住職との会話。

住職『お前、生きるつもりか? それとも死ぬつもりか?』

わたし『生きるつもりにきまってましょうがね。』

住職『人生は長いぞ。どうせ死にたくなるにまきっとる。』

わたし『生きてなけりゃ、死にたくもなりませんよ。』

住職『そんならなんで生きとるんぞ?』

わたし『死にたくないからにきまっとるでしょ。』

住職『それでは、生きるつもりとはいえんぞ。ええ、こら。』

わたし『若い美空ひばりで、人生の味噌味なんかわかるわけないよ。』

住職『人生、美空ひばりばかりじゃなかろうが。人生、住めば都はるみ、言うてみい。』

わたし『洒落になってない思うけどな』

住職『まあええわい。やりたいようにやってみい。』・・・というような

駄洒落住職から、「現代密教」という講義を受けたのが不運のはじまりでした。

あれから幾星霜・・・三年前に住職も寂して、今は串のおでんのような形のお墓におさまって

いますが、毎年盆・暮・彼岸には花を手向けに行きます。

(密教系住職の墓というのはだいだい、おでん型です。

頭部がこんにゃくで下はじゃがいも・アゲ豆腐の構成になっています。)

あの時、聞いた彼の言葉が今も木霊のように響くのが聞こえます。

「われわれは、最終身を生きている。この世でなすこと、聞くこと、見ることがすべて。

 それが、現世と来世を捨てるということ。霊界は今ここにある。」

30年を経て、やっと「住めば都はるみ」・・と言える様になれたような気がします。


犀の角のように ただ ひとり 歩め

出家者は  あの世とこの世をともに 捨てる
                   (最古の仏典「スッタニパータ」釈迦の言葉より)