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「生き方と逝き方」これは最近ずっと気になっていたテーマです。

介護の職場で3年目、老と死に日常かかわることになるのです。

印象深い方がいらっしゃいました。97歳のKさんです。

「思い込んだら命がけ」と家族さんが言われるほど、激しく強い気性の方です。

20歳で教会で洗礼を受けたクリスチャンで友人の多い方でした。

高齢で心肺機能が低下して寝たきりになってしまいました(いわゆる老衰です)が

「あの方にはこれを送ってちょうだい。」と知人の方に気を配っておりました。

お見舞いにきてくださった方みんなに「死ぬのも難儀です。」とおっしゃってました。

この方は、教師をされてた方で、身を持って現実を教えていたように見えました。

遠方からお見舞いにきた家族さんに葬儀の段取りと亡くなった時にかけてもらう着物を用意

するよう指示をしていました。

Kさんは今いる自分の部屋で最後を迎えたいと強く望んでおりましたが、「あ~苦しい」

と声を上げるようになり、施設での生活は限界になり、病院へ入院することになりました。

部屋をでる時「往診、往診」と言って、いやがりました。

病院に着いてから、家族さんに「帰る、帰る」と訴えたのですが、「もう帰れないのよ」という

返答に怒って、叩いたりしてました。11時に病院をでて、亡くなったと連絡を受けたのが5時間後

やすらかなお顔をされていたそうです。

びっくりしましたが「もういいわ!」というKさんの声が聞こえた気がしました。

寝たきりになって6か月、Kさんといろんな話をしました。「自分で決めて自分で生きた人生、

大変なこともあったけど、悔いなし!!」とおっしゃっていました。

葬儀は自分で指示したとおり、通っていた教会でした。Kさんの自慢はパイプオルガン。

普段は奥にしまってあるそうですが、わざわざ出してきてパイプオルガンの演奏で送って

いただきました。思いの強い方で、スタッフ一同きりきり舞いさせられましたが、

思い通りの最後でした。戻れないとあきらめたら前に進む。強い意志の力を感じました。

こういう方もいらっしゃれば、同じ老衰でも意識がどこまであるのかわからない。

身体面では、床ずれができたり、体の1部分が飢死してきたり、肉体が朽ちるまで、生きる方

もいらっしゃいます。

医学的に根拠はないですが、これまでの生き方が逝き方になるような気がするのです。

大きく言えば「霊主体従」か「体主霊従」か。

「体主霊従」ならば、最後まで肉体に留まろうとするでしょう。

「霊主体従」なら「もういい、精一杯やった!」と、すっと肉体を手放せるのではないか

と思えるのです。認知症で判らなくなったら?と言う疑問もあるでしょうが、頭で考えるのでは

なく、そうなるのだと思うのです。自分で最後なんて決められないと言いますが、

何を大事として生きてきたかがいろんな形で最後現れ出てくるのかなとそんな風に思います。