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「死」についてはあまり話題にしたくない避けたい話だと思います。しかし、書いておきます。

今日、私の勤務するケアハウスで96歳のMさんがご逝去されました。

現代では「死」というものは忌み嫌われ病院や介護施設というブラックボックスに入れられて

しまいます。しかし、「死」があるから「生」があるのです。

Mさんは車いす生活ではありましたが、なんでも身の回りのことは自分でなさっておりました。

1年程前から「手に力が入らんなってきた。自分のことが自分でできんなったら早くあちらに

逝きたい」と常日頃、職員や主治医に言っておりました。

もちろん努力もします。横になっていても、日課の手のグーパー体操はかかしません。

年末くらいから短期記憶があやしくなり、食事量も少なくなってきました。

1月20日にトイレで転倒、足首に捻挫をしてしまいました。

96歳で捻挫は致命傷です。寝たきりになってしまいました。が、トイレは寝たままするのはイヤ。

体力も考えて、便だけはトイレにお連れすることになりました。

しかし、もう96歳です。みるみる弱ってきて、2週間前からターミナルケアに入りました。

ケアハウスは残念ながら看取りの体制はありません。ある程度元気な方が対象なので、夜間は

2フロア30名に1人の夜勤体制です。ターミナルケアには家族様の協力が必要になってきます。

娘様2人とも膠原病とリュウマチという難病を患い、入退院を繰り返していました。

妹様は元気とはいえ88歳の高齢です。しかし、皆が協力してくれて2週間ずっとMさんの傍につい

ていてくれました。

宿泊当初は「早くお帰り」「今日は泊まるよ」「ふ と ん」と言って指を指すなど、病弱な

娘さんを気遣っていたそうです。

Mさんの意識はしっかりしており、亡くなる10日前まで、トイレに行きました。

1度、トイレにお連れした際、嘔吐をし、かなり体力を消耗されたので、本人が希望されても

職員、家族様共に言葉を濁していたのですが、「ここはトイレに連れて行ってくれないのか」と

言って自力でナースコールをされました。弱ってしまうことを承知の上で、抱きかかえ、

車いすに移譲し、トイレに座っていただきました。もちろん座位がとれず、前に倒れてくるので、

職員が見守りさせていただきました。家族様に「弱っても本人の思いを遂げるか、思いを無視し、

少しでも生きながらえてもらうかどちらかです」と言うと涙ぐまれておりました。

翌日、主治医の往診があり、家族様から相談がありました。主治医は「本人の思うようにさせて

あげてください。」と一言。家族様は意識がしっかりある母親をみて点滴はどうかと聞かれましたが、

主治医はしませんでした。

主治医は本人の意思を1年も聞いてきております、さらに、老衰で枯れていく体に点滴をするという

ことは本人も苦痛になるのです。水分が採れなくなったと伝えた時「点滴、いややめておこう。」

と言われました。本人の意思が確認できない場合は、家族の意志が優先されるため、点滴を処方

することがほとんどですが、Mさんはきちんと自分の意志を伝えていたのです。

高齢者の場合、認知症などで、Mさんのように自分の意志を伝えることができる人は稀なのです。

寝たきりになっても手のグーパー体操も手が動く限りはされていました。

「Mさん、娘さんと妹さんずっと傍にいるよ。幸せだね。」と言うと、目をつむったまま

コクンと頷かれました。今日、安らかに息を引き取りました。傍についていた娘様も気が付くと

息をしていなかったと言われるくらい苦しみもなくスッと体から離れて逝かれました。

エンジェルケアをお手伝いさせていただくと感じるのですが、Mさんは肉体には居なくなった。

肉体はあるのですが、肉体は抜け殻で、Mさんはそこにはいないというのがわかります。

残念ながらどこへ行ったかはわかりませんが・・・。

こういう先人の姿を見させていただき、まだまだ入門者ではありますが、仏教やシュタイナーの

霊学を学んでる身とすると、死は恐れるものではありません。それよりも、「いかに生きるか」

という課題にぶちあたります。

やまねこの朋友でチベット仏教のラマである林先生は、チベット人は「元気に死んでいく、

さあいくぞ!と言ってあちらに逝く」と言っておられました。そのため

には「生き切ること!」が大事と言われます。「死ぬことを学べ、そして汝は生きることを学ぶ

であろう」という言葉は「チベット死者の書」に書かれている言葉です。

Mさんのご冥福を祈るとともに、最後の看取りをさせていただいたことに感謝します。

改めて「自分の生」を省みる時間となりました。