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どっとイブニング!(^^)!

昨夜「天使と悪魔」TVで観ました。

この映画は封切されたとき、やまねこと一緒にレイトショーで観に行きました。

やまねこは、ざわざわ人が集まる場所は嫌いなので、映画館まで足を運ぶのは、

珍しいことでした。私たちにとって要チェック映画だったわけです。

「あきらめるんよ、断念するんよ。」

「手放すんよ、神仏に任せるんよ。」

やまねこのレビューを読んでいてやまねこの日常の言葉が思い返されました。

この1年を振り返って、身辺が少しづつ変化しています。しかし、これは、私が作為的に

してきたことではなく、自ずと成ってきたものです。新しい年を迎えるにあたって、

「自分の道」を違えないよう静かに内省の時を過ごそうと思いました。


『天使と悪魔』を観る~陰謀論を超えて 2009.5.13byやまねこ

はい、どっと・おばんです。(=^o^=)

やまねこは、レイト・ショーで『天使と悪魔』を観て来ましたよ~。

なかなか見ごたえのあるサスペンス・オカルト映画でありました。前作『ダヴィンチ・コード』と同

じ主人公ラングトン教授を演じるトム・ハンクスの名優ぶりが光っています。さらには、今回の舞台

となるバチカンの様々な名所風景もカメラ・アングルが秀逸です。システィーナ礼拝堂のミケラン

ジェロの天井画など美術的にも楽しめ、かつ手に汗握るサスペンス・アクションや音楽もいい。

新教皇選出のコンクラーベを舞台にイルミナティを巡る殺人事件、陰謀、ガリレオの暗号を解きなが

ら、ラングトン教授が、バチカン爆破テロの阻止に謎を追って、ローマの街を駆け巡ります。

ここ数日やまねこは、モチーフとなっている「イルミナティ」を調べていました。

フリー・メーソン、聖堂騎士団は前作「ダ・ヴィンチ・コード」でも取り上げられましたが、今回は

ガリレオとイルミナティです。

イルミナティ~ウィキペディアより

『1776年、インゴルシュタット大学の実践哲学教授アダム・ヴァイスハウプトが啓蒙主義的な
Perfektibilismus(人類の倫理的完成可能説)を謳い、Perfektibilistenの同盟をつくり、のちに、
イルミナティと改名した。原始共産主義を志向する側面と、内部の位階制の側面が同居している。
ヴァイスハウプトからのキリスト教批判はあるが、それは倫理的完成へと向けるもので、他教への
転向などを訴えるのではない。ユダヤへの連関で語ってはいない。最盛期には各国に支部が置かれ、
会員はインテリ、著名人、政治家、貴族等、2000人に及んだという。1777年、ヴァイスハウプト自身
もフリーメイソンになっており、並行してフリーメイソンだった者も多かった。通説では1784年に
バイエルン王国がフリーメイソンリー、イルミナティを含むすべての秘密結社を禁止するまで続いた。
1785年にローマ教皇・ピウス六世はイルミナティがカトリックの教義になじまないと明言した。
結社としての活動は1785年に終わったが、1897年になってレオポルト・エンゲルによってドレスデン
で独自の形で再興された。オカルト色が強く、悪魔主義になっている。』

この映画では、ガリレオに始まる近代科学と宗教(カトリック教会)の対立が背景にあるようですが、

フランス革命のバック・ボーンとなった啓蒙主義の地下水脈にイルミナティの流れがあったこと、

啓蒙思想とは「光で無知を啓く」つまり、イルミナティのアナグラムであることが暗示されている

ようです。

さらに時代は、下って1970年代アメリカのポップ・オカルティズムの旗手 R.Aウィルソンは

『イルミナティ三部作』を書いて、ベストセラーになります。フランス革命史の背後のイルミナティ

の暗躍やアメリカ建国にフリー・メーソンが関与していたことなどに触れられています。

そんなことを考えながら『天使と悪魔』を観ていると、この映画の意図がどこにあったのか?という

謎を感じます。よくある陰謀論やフリー・メーソン通史、ナチズム、国際金融資本、多国籍企業、

イルミナティと啓蒙思想と大本教『霊界物語』以来の日本の神示、ユダヤ民族、日ユ同祖論、

神代文字そして、わたしたちが住んでいるこの現代社会とは何なのか?

 『陰謀を恐れるものは、すでにトリックにかかっている』というのが、やまねこの持論なのですが

恐怖をてこに他者を支配する・・という人間の弱き心を見つめることなしに、陰謀論を超えることは

できないのかな、と思いました。そして、自由への道とは「支配への意志」の断念と放棄を通して

魂の新たな次元を啓くことなのかな、と思っています。

何ものをもコントロールしないという自由な心を育ててゆくことが、イルミナティへの最大の

「結界」なのではないかな? なぜならば、イルミナティの本質とは、「支配への意志」だからで

す。

それは、おそらく孤独で、骨の折れる内的作業なのでしょうし、自分とひたすら向かい合うことなの

でしょう。

人は、自由になるためには、他者に対して何も求めないほどに自分と言う道に踏み込む必要がある

のかもしれませんね。やまねこ(=^o^=)でおました。