どっとチューニング!(^^)!
早いものでもう年の瀬ですね。
毎年恒例の風邪をひいてしまいましたが、睡眠療法でなんとか回復。( `―´)ノ
今日は義兄と一緒にお墓参りとグループホームにいるばあちゃんに年末のご挨拶に行ってきました。
いつもの笑顔と元気なばあちゃん節で迎えてもらいました。安心して年の瀬を迎えられます。
ところで、先日、お遍路仲間のKさん宅で仲間5人が集まりました。
11月末に心筋梗塞で突然ご主人を亡くしたので皆の励まし会です。
私は聞きにくいことをずばって聞いてしまいました。
「お遍路廻ってるのに、なんでこんなことが起こるんやろうって思ってない?」
「私、何しよったんやろ、お遍路しよって、なんでこんなこと起こるんやろって正直思う。」
「お遍路って、“おかげ”を期待して廻るもんやないと思ってる。私たちの着ている白衣は死に装束、
金剛杖は墓標になる。昔の人は死を覚悟して廻っていた遍路旅。行の道なんよ。そこを歩かせて
もらっている。Kさんが遍路旅をしたことによって、ご主人の道を造ってあげてたんじゃないかな?
私はそう思うよ。」と言うと、
「つっかえてたものがスッと落ちた気がする」と言ってくれました。
「やまねこから『自灯明 法灯明』という言葉をよく聞いていたよ。自らを灯りとし、法を灯りとする。
これが仏道なんよね。」
人は大きな不幸に見舞われると、一瞬真っ暗闇になります。それから、思考がはじまります。
もし、自分に不都合なことが起こったからと、神仏に疑いを持ち始めると、法の灯りは届かなく
なります。
仲間のこんちゃんが、「今年は60年に1度の丙の申歳、この年に逆打ちお遍路をすると、お大師さんに
会えると言うよね。私たちみんながお大師さんやったんかな。7月にたった1回一緒になっただけの
ご縁でこうやってみんな集まってるんやから不思議やね。」
Kさんはこれから嵐の大海原の中を船で漕ぎ出るがごとく、心が大きく揺れるでしょう。
しかし、良きご家族と、仲間とで乗り切ってくれるはず。
Kさんのお陰で、私もお遍路とは何かもう1度深く考える機会をいただきました。
お大師さんとの縁をきちんと結ぶため、その道を歩こうと、1年満願で始めたお遍路旅、残りは徳島県
だけとなりました。不思議とやまねこが「お釈迦様の歩いた道を辿るインド旅行」へ行った年齢と
同じ年齢なんですよ。
今日のやまねこ便です。
「アート・オブ・ライフ」2008.11.10 はい、どっと・こむにちは(=^o^=)やまねこです。 昨日から急に冷え込みましたね。もうしばらくすると町ではジングル・ベルが聞こえ始めて年末の 坂道にかかります。2008年という歳が、終盤に近づいてゆくのです。 わたしもブログを始めて早くも18ケ月が過ぎました。時の流れは早く、移ろい行くものだな、と 感慨深く思います。 さてさて、インド旅行に向けて、今週末はチベット仏教講座を控えていますので、気を引き締めてい ます。年明け一月末からブッダガヤ、ベナレス、カトマンズの聖地巡礼の旅です。 日本に仏教が伝来したのは、そもそもインドのルンビニーにお釈迦様が生まれたことに遡ります。 誕生して、お釈迦様は三歩歩いて『天上天下唯我独尊』と語られたといいます。 『わたしこそは、世界の発端であり、わたしこそはそのよりどころである』という意味なのだそうです。 お釈迦様の悟りの法印といわれる『諸法無我』・・・世界に我なるものはなし・・という 言葉と対をなす言葉ですね。一見、矛盾していますが、ここに仏教の核心があるような気がします。 『わたしという謎は、縁起としての空である』という真理が語られているということなのでしょう。 わたしたちが、日々思うように「わたしのもの」など何一つないということは客観的な事実です。 すべては、時間と共に移ろい去ってゆくものだからです。それを諸法無我というのでしょう。 しかし、同時に『自灯明、法灯明』ともいいます。『自らを灯りとして、真理を灯りとし なさい』とのお釈迦様の臨終の言葉も残されています。 「私を灯りとして、真理に照らす」とは、「我が物は何一つない、暗闇の世界に法の灯り を灯すこと」だということなのでしょう。 仏教とは、自らを照らす・・というシンプルな教えかな、と最近思っています。 生きているという単純な事実を受け入れて、「わたしにとどまる」ことができれば、自ら を灯りとすることができるのでしょう。 法は、あまねく照らすものですから、私たちの心が澄めばいつでも、太陽のように月のよ うに注がれているのかもしれません。
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