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どっとイブニング!(^^)!
記録的な大雨ですね。愛媛県も、昨日より雨が降り続いています。
昨日は、義母の100ヵ日法要で納骨の予定でした。49日法要も雨で、納骨を先延ばしにしていたのです。しかし、この大雨です。また先延ばしになりました。
どうも、義母ちゃんは、まだ逝きたくないらしい。
「父ちゃんには50年怒られ続けたから、父ちゃんとこにはまだ行きたくない。」と言い続けてがんばってきた義母ちゃん。まだ、決心がつかないご様子です。
お仏壇に手を合わせ、横に置いてあるアルバムとスケッチブックを見せてもらいました。
それは、義父の最も輝いている時代のものが残されていました。
1985年頃のもので51番札所石手寺にマントラ塔ができ、その中に安置された義父の仏像の写真や頂いたお手紙などです。私はやまねこに縁づいた時には義父は他界していましたので、義父のことは家族の話でしか聞いていません。
1985年といえば、義父が60歳過ぎの年齢です、75歳で他界しましたが、写真に残ってある仏像はなかなか迫力ありました。
義父の職業は「自由業」これは義母がやまねこが子供頃、学校の書類で保護者の職業欄に書いていたそうです。
何せ、大正11年生まれで、会社員などとい職業はなかった時代です。鉄工所、骨董屋、養豚業、農業etc,、いろんな仕事をしてきたようです。それで、6人の子供を育てているのですから、今考えるとすごいですね。
そんな義父がなぜ仏様を彫りだしたのか?残された新聞記事に載っていました。
「18歳の時、円空仏を目にし、魅了された。鉄工所をやっていた昭和45年(50歳頃)、建築現場から転落し、それを機に仏様を彫り出した。亡くなった戦友への弔いを込めて、357体仏様を彫りました。500羅漢を目指し、365日、ノミを手にしています。私はかみしもをつけた刀匠ではなく「野鍛冶」です。仏様は、泣いていちゃいけない。怒っていても目尻や口元に「笑い」をつけてるように彫っています。私は『和』を大事に生きてきました。」
そういえば、義父の彫った仏様は素朴でひょうきんです。
私は直接、義父ちゃんのこと知らないですが、「野鍛冶」なんてなかなか活けてるじゃあないですか。鍛冶屋になりやかった義父らしい言葉です。
義母ちゃんから言えば、「6人も子供がおるのに、好きなことばかりして・・。」
365日、仏像を彫る義父にお弁当を毎日、作って届けたいた義母ちゃん、あなたの内助の功あってのことでした。なかなかできることではないです。
51番札所「石手寺」に残されている義父の仏像、ひょうきんに笑っているその姿を見て、私もそのように生きていきたいと思います。
義母ちゃん、そろそろ、義父ちゃんところにいって、また世話してやってよ。
「え~~、もうええよ。充分やった。」という義母ちゃんの声が聞こえそうですが、
「まあ、そう言わんと」と、義母ちゃんから教わった言葉でお返ししますね。(笑)