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どっとイブニング!(^^)!

夢の里は霧が立ち込め神秘的な景色。

時折聞こえる鳥の囀り・・・令和元年はとても静かな幕開けとなりました。

普段、TVを点けない私が、天皇即位の儀式が気になりTVを点けました。

不思議ですね。天皇陛下という存在、そして日本という国は・・・。

天皇家の系譜を辿れば、神武天皇という神話までいき着いてしまうのですから。

悠久の時の流れの中で私たちの祖先が歩んで培ってきたものが今ここにあり、

今ここから、また新たな物語が紡ぎ出されていく、新元号を迎えた今日、

そんなことを思いながらゆるゆると過ごしています。

我が家に1番最初に植えた木、「ツツジ」が今年も綺麗に咲いてくれました。

岩盤の上の痩せた土地に良く根付いてくれたものです。

「現代の神話」とヴィジョンを生きる 2013.1.3 byやまねこ

はい、どっと・みっどないと(=^o^=)やまねこでおますよ。
皆様、2013年の初夢はいかがでしたか。一富士、二鷹、三茄子。
わたしたちは、夢見る存在として生まれてきたものです。
また、眠りと目覚めを行き来する者、生きるという旅人なのです。
現代人は、神話を失った文明を環境としていますが、先住民にとっては今も神話が
生きる指針となっています。
先住民に倣って、わたしたちもまた神話からヴィジョンを紡ぎだすべきなのかも
しれませんね。神話的な思考について考えています。
合理主義を当然なものとして受け入れ、文明の発展を信じテクノロジーに囲まれ、自然環境の危機
が言われているだけに『神話的なものへの郷愁』を感じるのはわたしたちの悲しき風習なのかも
しれません。

『神話的思考はいわゆる未開人に特有のものではなく、科学技術の発展した現代の都市社会でも
はたらいている。ただし、未開の神話的思考が、自然からの文化の発生という点に力点を置いて
いるのに対し、文明の神話的思考は、むしろ失われた自然への郷愁に力点が置かれる。神話の思考
は、この二つの間を揺れ動いている。ある時代には、人は文化住宅に住んで文化鍋を使う生活に
憧れ、ある時代には、人は自然食品を食べて自然分娩をする生活に郷愁をおぼえる。
現代の神話的思考は、科学の思考と共通する、あるいは類似するタームを使うので、科学の思考と
見分けるのが難しい。しかしそれを科学の思考と混同するのも誤りだし「疑似科学」というレッテル
を貼って排斥するのも誤りである。(それなのに「神話」という言葉は、誤っているのに根拠も
なく信じられているものを指し示す言葉として使われつづけている。)』
(「四畳半神話体系」森見登美彦)

確かにわたしたちは、誤っているのに根拠なく信じられているものに神話と言う言葉を使う一方で
自然界と共存する先住民の文化や神話に憧れる。車を利用し、電車を利用しつつ山林を散歩して
自然に親しむ。先住民にとっての神話とわたしたちの神話は、どこかで前提するものが異なって
いて科学的なものと非科学的にものの間を揺れ動いているように思われます。
特に日本人は「そんなの迷信だよ」と言う一方で下駄の鼻緒が切れたら心配したり、茶柱が立った
ら喜ぶものです。「根拠なく信じられているものの神話」の例でしょう。
科学的な思考に慣れた現代人は、合理性によってそぎ落とされた「神話的思考」を日常の枠組みの
中に入れることもできず、かといって先住民のように「生き方・世界観」として持つこともできず、
失われたものへの郷愁ととらえるのでしょう。

科学的世界観への盲目的な信仰・・・というものがもしあるとしたら、「そんなの迷信だよ」と
鼻で笑うべき相手が鏡に映った私たちの自身ではないということは、言い切れません。
アボリジンのドリーム・タイムのような世界観を非科学的と見るか、郷愁と見るかは人によって
異なるのでしょうが、もういちどわたしたちは当然と看做している現実をとらえなおしてみる必要
があると思っています。

「神話の力」は著名な神話学者キャンベルの代表作です。

彼は、神話的な作用が普遍的に人間の根底を支えているという立場をとっていますが、神話作用を
失いつつある現代人への警世のメッセージを本書で展開しています。

『神話とは、現実の観念を超え、あらゆる思想を超越したもの。
 神話はいつでもそこへ人を導き、あなた自身に他ならないあの神秘への橋渡しをしてくれるのです。シェークスピアは、芸術とは自然に向けて掲げられた鏡だ、と言いましたが神話もまさにそうです。
  
内面的な世界と言うのは、外面的な世界と結びついたあなた諸要求、あなたのエネルギー、あなた
の構造、あなたの可能性などの世界です。
そして外界はあなたの肉体的な顕現の場です。そこにあなたは存在しています。
あなたはその世界を二つとも働かせなければなりません。ノヴァーリスが言ったとおり
「魂の座は内面世界と外面世界とが合致したところにある」のです。』

はるかな歴史の中ですべての民族がつむぎ出してきた神話は、夢が個人の内面を反映しているよう
に民族全体の内面を照らし出しています。そして、夢が個人の深い基層をなしているように神話は
民族の天空を照らし出しくれます。それは確かに自然界に向かって掲げられた巨大な鏡なのでしょう。
先日、茂木健一郎さんがテレビで「あなた自身の物語を生きよ。」と語りかけていましたが、
キャンベルは、象徴と暗喩に満ちた神話を通して「あなたの内面に向けて上昇せよ」
と語りかけます。
わたしちの日常は、一定の枠組みの中に組み込まれた事実によって満たされていますが、ひとたび
「内なるもの」に眼を向ければ、それは「物語」へと変容してゆきます。
"わたしという物語"を語り出すことができるのです。そして、眠りの中で夢を見ます。
夢は、現実の種子であり、夢を通してわたしたちは魂の神秘な働きに目覚めます。
そして、夢の天空をなしているのが神話です。

神話はわたしたちの祖先、民族が歩んできた歴史や叡智、神々の物語が刻まれている空の地層とも
言えるものです。それはわたしたちと無縁なものではなく、夢の向こう側に広がる「美と叡智の海
」のようなものとも言えるでしょう。
わたしたちは、夢の天空から星の神話を掘り起こし、叡智の海から神々の物語を釣あげ、古代の美
の回廊を歩むことができます。

そして、一人ひとりの物語を内なるものと外なるものが出会う物語を生きることに誘われているの
ではないでしょうか?
私たち日本人もまた先住民の末裔なのですが、新たな神話を紡ぎだすべき時代にさしかかっている
ような気がします。
年頭にあたり、「私の神話」=ヴィジョン・クエストに取り組みたいものです。