
わたしが、いつも気になっているのはメディアが世論を操作しているという側面と世論にメディアが
迎合しているという側面がそれぞれあって、時として良識が良識として通用していないということです。
亀田選手の反則は責められるべき点があるにしても、メディアが裁く権利はないように思うのです。
星野監督が指摘したように、「二階に上げて梯子を外すかのようなメディアの対応と暴走は戒めるべき」
と思いました。それは、オウム事件のときにも露骨に表れていたように殺人実行現場をお茶の間に
映し出すことによって、マスヒステリーとパニックを煽ったマスコミの暴力には警戒すべきものがあり
ます。こういう自己矛盾は日本人が陥りがちな問題かもしれませんが、メディアが「良識をスタイル・
シート化」することには大いに疑いをもっています。
こういったことは、戦後 反戦・平和の論調をもつ朝日新聞が戦前は大政翼賛会の広報誌として戦争への
世論を煽ったことなどにも見られます。朝日新聞は自社の「自己批判」を一度としてしたことがなく、時
流の良識を代表しているのは奇妙なことです。
勿論、わたしは産経新聞のような反・朝日的志向は持ち合わせていませんから、朝日のみの問題ではなく
日本人のメンタリティとメディア・リテラシーの問題と思っています。
新聞を読むとき、あるいはネットを見るとき、雑誌を読むときこれらのメディア・コンテンツは一定の
見解に基づく、一定の理解・論評であることを意識したいものです。知のガジェット(集積)としてのメ
ディアから何を得て、何を捨て、何を構築するかはもっぱら受け手であるわたしたちの「良識」のあり方
を問うものであって、共感・批判の暴走ではないと考えています。政治的手法やこれらのメディアの二元
化を危惧しています。
メディアを鵜呑みにせずものごとの真偽を見極める判断力や識別力を培いたいものです。
参照 メディア・リテラシー (Wikipedia辞典より)
メディア・リテラシー(英:media literacy)とは、情報メディアを批判的に読み解いて、必要な情報を引き出し、その真偽を見抜き、活用する能力のこと。「情報を評価・識別する能力」とも言える。ただし「情報を処理する能力」や「情報を発信する能力」をメディア・リテラシーと呼んでいる場合もある。なお、この項では主に、「情報を評価・識別する能力」という意味のメディア・リテラシーについて記述する。
戦後では、1957年にテレビというマスコミの悪影響として一億総白痴化などと言われたことがあった。「テレビというメディアは非常に低俗な物であり、テレビばかり見ていると、人間の想像力や思考力を低下させてしまう。」といったもので、現代におけるインターネット批判と同様の事が50年も前から起こっていた。しかし、メディア・リテラシー教育は無かったため、そういったメディアを読み、聞き、見ていく訓練は自主的に行わなければならなかった。
しかし、物心ついたころからテレビがどこかにあった世代(団塊の世代後期~)においては、テレビや新聞は絶対であり、テレビや新聞など大手の情報源以外の情報は取るに足らないとする風潮が強く、メディア・リテラシー教育の必要性は子供だけにあるものではない時代と言える。読売新聞(2006年10月20日)によれば、新聞を「大いに信頼できる」、「だいたい信頼できる」と答えたのは、50歳代で最も高い92%、最も低い20歳代でさえ83%という結果であり、あらゆる世代でメディアリテラシー教育の必要性を示唆する結果となった。
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