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今日は、家庭教師に行ってきました。毎週末に家庭教師に行くようになって、ワーキング・ホリデー

ということになりましたが、なかなか楽しい仕事かな。中学生さんくらいが一番、感性的にも知的にも

発達期ということもあって教えがいもあり、こちらも何かと刺激を受けます。黒猫飼いのキキということ

で、以前紹介しましたが、数学不得意という当初の状態から得意科目へとほぼ変貌をとげつつあります。

みるみるメタモルフォーゼしてゆく子を見てるだけでも楽しい。英語はなかなかセンスもあり大丈夫みた

い。理科は昨年教えるようになってからずいぶん理解度は深まってきたところ。国語・社会はもともとセ

ンスがあり、言葉の感受性がいいので作文などは得意。中学生くらいが勉強は一番伸びるときかも知れま

せん。柔軟な発想や基本知識が丁度バランスしているからでしょう。

まあ、かなりのスローモードの家庭教師ですから、こういう「学習法」で許容してくれているご両親の

理解と協力あっての成果と言えるでしょう。

勉強が終わってお父さんと雑談。昨日の「たけしの教育白書」のことなど話していて「藤原先生(世の中

科を作った校長先生)は、教育が消費活動と受け取られている点が、現在の学校や家庭で問題を作りやす

い背景になってると言ってましたよ。」と語りかけると、お父さんは

「教育は、消費活動じゃなくて共同作業ですよね。」と明快な答え。

確かに。家庭であれ学校であれ教育は常に共同作業というクリエイティブな活動なのだと思いました。

成績一辺倒で、塾が乱立し、競争優位な教育が学校でも優先していれば、当然のことながら企業原理

に侵食されて消費としての教育サービスが「教育そのもの」と区別があいまいになるのでしょう。

知識やスキルを提供するだけなら、教育産業サービスでもまにあいますから、学校が塾と系列化して

商品化しまうのは道理ではあります。教員の訴訟保険やモンスター・ペアレントの問題などは教育の

市場化の表れなのでしょう。

ただ、そこには「人間を育てる」という基本的なテーマが、舞台の書割のようにかすんで見えるような気

がします。知育・徳育・体育などと言っていた時代は彼方の昔話になりました。塾行く・宿育・受験育に

追われ未だ記憶力を競う子供たちを見ているとIT時代の悲惨な犠牲者のように思われました。彼らは仲間

に勝ったとしても、巨大な記憶装置の前には、ワン・チップの知の集積に過ぎません。コンピューターに

記憶で勝てる人間がいるはずはありませんから、確かにこれは悲惨な戦いといえるでしょう。

この時代に必要なのは、むしろ「ホモ・ルーデンス」としての人間、遊び、創り、生み出す力をもった

知性、そして、コンピューターの持てる能力を制御しながら、独立して生きられる「意識力」を持った

人間、混沌から秩序を生み出すマネージメント力であることは明らかでしょう。

知のガジェットをいくらひっくり返してみてもオリジナルな知力は育つことはないでしょうから。

偏在する知の集積を別なものに変化させる力をもった機械・・アンドロイド以上である「人間力」こそが

大切な時代です。